古橋亨梧は韓国人ハーフで国籍は?本名を改名して父親と母親から兄弟も調査!

スコティッシュ・プレミアシップ・セルティックFCでは絶対的エースとして活躍し、日本代表でも不動の地位を築くFW古橋亨梧選手。元同僚であり、世界的スーパースターであるアンドレス・イニエスタ選手から絶賛されるほどのストライカーです。

そんな古橋亨梧選手、一部では韓国人、ハーフではないかと疑惑が浮上。今回は古橋亨梧選手の父親、母親、兄弟、本来の国籍、そして本名を改名したことから古橋亨梧選手が活躍を果たす前の生い立ちに迫っていきたいと思います。

目次

古橋亨梧は韓国人?

古橋亨梧選手に対し出身国はどこなのかという話題で盛り上がっています。一部では韓国籍なのではないかと噂になっておりますが、古橋亨梧選手の国籍は日本です。2019年に日本代表に初選出されています。過去に日本に帰化したという情報はないので純粋な日本人です。

古橋亨悟選手は2019年に日本代表に初選出。サッカー日本代表になるためには2つの条件を満たす必要があります。

サッカー日本代表になる条件

① 日本国籍を持っていること
② 他国でA代表選手として公式戦に出場経験がない

まず第一の条件である日本国籍を持っていることについては条件をクリア。両親の国籍が一緒ではなく、ハーフとして誕生した場合、どちらかの国籍を選択しA代表選手として出場することが可能です。

第二の条件も、古橋亨悟選手は日本国籍であり、そもそも他国のA代表に選出経験がないため条件クリアとなります。A代表とは、年齢制限のない代表チームのことです。この条件を満たし代表チームを変更した選手として、スペイン代表として活躍したジエゴ・コスタ選手は、ブラジル代表として2度親善試合に出場。その後スペイン代表からオファーを受け、スペイン代表としてワールドカップに出場しました。

古橋亨梧がハーフや国籍が話題になった理由

古橋亨梧がハーフや国籍が話題になった理由

① 見た目
② 出身地
③ 本名の改名

古橋亨梧選手がハーフや国籍が話題となった理由として主に3つ挙げられます。まず1つ目に挙げた見た目です。古橋亨梧選手は切れ長つり目でエラが張っており、韓国人に多い容姿をしています。

2つ目に古橋亨梧選手の出身地です。古橋亨梧選手は奈良県生駒市に生まれ。奈良県は朝鮮人の比率が全国13位、生駒市は奈良県で8位の数字を残しています。見た目については偏見であり、出身地についても全国平均に比べ少ない為、調べていくとでたらめであることがわかりました。

古橋亨梧は本名を改名してた

国籍で話題になった理由の3つ目は本名を改名していたということです。本名は『古橋匡悟』という名前でしたが、プロ入り後に改名し現在の名前に。韓国、中国人は日本で使う名称として通名を使うことが多く、有名な方で例えると、元サッカー日本代表である李忠成選手が挙げられ、在日韓国人として生まれた李忠成選手は韓国名でイ・チュンソンと呼ばれ、その後日本に帰化したことで現在はり・ただなりとなっています。

しかし、古橋亨梧選手の場合は通名というわけでなく、知人の占い師に占ってもらい改名したとのこと。俗にいう芸名と同じになる訳です。『匡』という漢字は、右側が空いていて真ん中の『王』が外に逃げていく縁起の良くない漢字であり『亨』は片足でも上へ上がっていけるようにという想いが込められています。脚を使うサッカー選手にとってはぴったりの漢字ですね。

古橋亨梧の父親と母親

古橋亨梧選手の父親と母親について詳しい情報はないため一般の方だと予想されます。古橋亨梧選手が日本人であるため、両親も日本人になります。古橋亨梧選手と両親の間には素敵なエピソードがありました。

高校卒業後に中央大学へ進学。持ち前のスピードを武器に努力を重ね、1年生から試合に絡み全日本大学選抜、デンソーチャレンジカップの関東選抜に選出。2年生も順風満帆に過ごしていたが、3年生の時に膝を故障。1年間試合から遠ざかり、チームも1部リーグから2部リーグへ降格。4年生で復帰を果たしますが、怪我の影響もありコンディションが上がらず、目立った活躍を残すことができませんでした。

プロ選手になることを目指していた古橋亨梧選手はJクラブの練習参加をするも声がかからず、焦りから練習後ホテルで吐いてしまうことも。心が折れかけていた古橋亨梧選手は両親へ相談したところ、「辞めたら」と一言。その言葉に続き、「今まで頑張ってきたことが無駄になるけどそれでもいいなら」と言われました。古橋亨梧選手はここで立ち直りFC岐阜への入団を果たします。両親の一言がなければ今の古橋亨梧選手の活躍を見ることは出来なかったでしょう。

古橋亨梧の兄弟

古橋亨梧選手には弟が1人います。父親とよく古橋亨梧選手の試合を観戦するようです。古橋亨梧選手は地元のサッカークラブ桜が丘FCでサッカーを始め、中学進学時には京都サンガジュニアユースのセレクションを受けるものの不合格に終わり、アスペガス生駒FCに入団。地元では厳しいクラブとして有名で同級生は入団を嫌がったようですが、あえて茨の道を選んだ古橋亨梧選手。

高校は大阪・興国高校へ進学。現在は選手権の常連校ですが、当時は無名のサッカー部でした。興国高校はドリブルを磨くことに秀でた高校であり、スピードのある古橋亨梧選手は更なる武器を手にし、ステップアップしていきました。弟はサッカーをしているという情報はなく、兄である古橋亨梧選手とは別の道を歩んでいます。

まとめ

古橋亨梧選手にはハーフや韓国籍ではないのかと疑惑が上がっていましたが、純日本人です。切れ長のつり目の容姿、出身地、本名を改名したことから疑惑が上がってしまいました。古橋亨梧選手が日本人であるため父親、母親も日本人です。古橋亨梧選手は一度サッカー選手になることを諦めますが、両親の素敵な言葉で思いとどまり、プロ選手になることが出来ました。弟が一人いますが、サッカーはしていません。

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